2023年度学会賞選考委員会報告

審査対象 亀山光明氏(プリンストン大学大学院生)著『釈雲照と戒律の近代』(法藏館 2022年8月刊)
本書は、幕末から近代にかけて戒律復興運動の提唱者として活躍した、真言宗の僧侶・釈雲照(1827~1909)の思想と行動について論じた労作である。十善戒の「国民道徳」化と在家者への教化、具足戒を持した出家者の戒律学校(目白僧園)創設、末法思想に対抗する正法理念の再考、業思想と科学的世界観の対峙、同時代のアジアの仏教へのまなざし、皇道への仏教の位置づけなど、多様な視角から雲照の戒律運動の思想や行動が捉えられている。
こういった雲照の戒律思想と行動は、近世の戒律復興運動にすでに見られた具足戒護持による釈尊の仏教への原点回帰志向を継承しつつ、近代においてそれを独特な形で展開したものであった。しかしその姿勢に対しては、堕落した僧界を刷新する高徳の僧、あるいは保守的な旧仏教といった相反する評価が、雲照の存命中からなされてきた。戦後の近代仏教研究においても、雲照の思想を、一方で戒律実践を近代的な内省的自覚の端緒として評価しつつ、他方で国家主義化した封建仏教に留まったと指摘し、後続の清沢満之や境野黄洋らの思想と比べて不完全な仏教と位置付けてきた。あるいは近代の日本仏教における戒律の衰退過程という言説の中に押し込んでいった。
著者は、こういった単線的な近代主義的視点から雲照の戒律論を捉えるのではなく、当時の認知枠・思想状況といった具体的文脈を考慮しつつ、近年の国内外の諸研究も広く吸収し、一僧侶の社会史的記述を超えた理論的な考察を行っている。
本書の評価すべき点としては、第一に、真言宗の戒律思想の近代的展開に着目したことで、浄土真宗を中心とした近代仏教史像に対し、もう一つの近代日本仏教史の可能性を切り開いたという点があげられる。この点は近代日本思想史・宗教史の研究のさらなる展開にもつながる可能性があるだろう。第二に、「戒律を失った近代」と言うステレオタイプを批判的に検証し、また戒律を十分に論じてこなかった近代仏教研究に新たな研究領域を切り開いたという点があげられる。雲照が戒律(十善戒)の基本を脱仏教化し普遍性を帯びた道徳(国民道徳)と読み換え、当時新たに重視され始めた在家教化に力点を置いた点、また当時の上座部仏教や朝鮮仏教と対峙する中で、戒律思想を形成し発展させてきた背景などが指摘されており、従来ほとんど研究されてこなかった近代の日本仏教における戒律実践の多様な広がりが示されている。第三に、近世と近代の連続と断絶に注目した点が指摘できる。雲照の戒律論と、彼に影響を与えた江戸後期の真言宗の律僧・慈雲飲光の戒律論との比較や、持戒を難行としていた末法思想を踏まえつつも、これを覆す正法思想の論理の模索などが指摘されており、近世仏教研究と近代以降の日本仏教の複雑なつながりの一端が描かれている。
他方で、本書においては不十分な点も散見される。一つは、「戒律の近代」という大きな視野を考える上で、雲照の代表性や彼の思想の影響の度合いがどの程度のものであるかという点である。本書の中でも若干触れられている戒律を重視した人物の思想や実践などとの異同について、もう少し触れてもよかったかもしれない。少なくとも、雲照の外護者たちが、実際に戒律をどのように実践していたのか(していなかったのか)についてはより具体的に取り上げるべきではなかったか。また「国民道徳」と読み替えられた十善戒は、実際にどの程度社会に浸透したのだろうか。雲照自身の影響力や注目度とは別に、彼の思想の社会的浸透力が見えてこない。
もう一つの問題は、雲照自身のテクストの読み解きが十分に展開されていない点である。あるいは、彼の戒律実践に根差した思想の在り方が見えてこない問題である。雲照は十善戒の各戒をどう捉えていたのか、それをどう行為し、何を感じていたのか。また出家者向けの四分律の各条項を雲照自身はどう意味付け、自ら出家者としてどのように実践し模範を示したのか。そういった具体的文脈や身体性が本書からはほとんど見えてこない。記されているのは、戒律を普遍的な道徳(国民道徳)として捉え、善悪因果三世応報といった仏教的存在論・世界観を基礎として戒律実践を意味づけるなどの抽象的な言葉である。
こういった実践に根差した思想の読み解きの問題は、他の問題点にも波及していると思われる。たとえば、本書冒頭で、ジェンダー問題と深くかかわる「肉食妻帯」の問題を強調しながらも、結局は今後の課題として据え置いた点があげられる。多様な視角の中に、戒律と切り離せない男性僧侶にとってのセクシュアリティの問いが埋もれてしまっていることは誠に残念である。また、著者は戒律実践を論じることが、ビリーフ中心主義の議論への批判となるとしているが、個別具体的な身体性や感覚・感情の在り方を素通りしたため、逆に雲照の戒律論におけるビリーフ重視の側面を浮き上がらせてしまったように思える。

本書はこういった課題があるものの、それを乗り越えるだけの著者の力量を感じさせる著作でもある。このような観点から、本選考委員会は、本書を2023年度日本宗教学会賞にふさわしい業績であると判断する。

 

 

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