2014年度学会賞選考委員会報告

審査対象 門田岳久氏(立教大学助教)著『巡礼ツーリズムの民族誌――消費される宗教経験』(森話社、2013年2月刊)

 本書は、宗教研究において近年しばしば取り上げられる巡礼ツーリズムという事象を通して、高度な消費社会である現代日本における「宗教的なるもの」の経験について考察することを試みた労作である。近現代日本においてツーリズム産業に取り込まれ資源化されてきた巡礼習俗・聖地参詣を「宗教的なるもの」の現代的位相を示す一事例と位置付けた上で、門田氏はそうした現代の消費社会的文脈を背景に、巡礼ツーリズムにおける人々の宗教的経験のあり方を記述している。そして、宗教学はもとより社会学や人類学の先行研究を幅広く参照した精緻な理論的考察を基盤として、門田氏が目指したのは、巡礼ツーリズムに参加する人々の宗教的経験や自己形成のあり方を、彼らの語り・ナラティブの分析によって民族誌として構成するということである。
 本書における門田氏の基本的な視座は、ツーリズムという文化産業によって可能とされた経験構築のなかで、商業主義と宗教(あるいは「宗教的なるもの」)とを背反的なものと捉えるのではなく、両者が相互規定的な関係のうちにあると理解することである。そして、医療など日常生活のさまざまな局面が多かれ少なかれ消費社会に取り込まれざるを得ない現代日本においては、宗教的実践も「消費される宗教経験」となってしまうことを克明に分析し、巡礼ツーリズムのうちに現代日本人の高度消費社会における自己理解の一つのあり方を見る。門田氏はここで、従来の宗教研究において自明のものとして前提されてきた宗教独自の安住した場所を解体するというリスクをあえて引き受けながら、市場経済や消費行動といった世俗との相互作用のなかで宗教を再考し、既存の宗教的概念では把捉できないような内実を明らかにしようとしている。
 その一方で門田氏は、宗教研究だけではなくツーリズム研究の文脈においてさえ従来、宗教的な旅に宗教性や自己発見・自己実現の契機を読み込んでしまう傾向があったことを厳しく批判する。特に、ツーリズム研究の基本的な語彙の一つである「真正性」が、宗教経験に対する過度の憧憬やロマン主義的理解のなかで安易に使用されてきたことを指摘して、そこに一見商業主義的でない商品形態を装いながら、巡礼経験者に「聖なる意味」や「自己アイデンティティー」を供給しているかに見える巡礼ツーリズムのあり方を解き明かして見せるのである。その際もちろん門田氏は、そうした巡礼ツーリズムを浅薄で非宗教的なものとして切り捨てるのではなく、宗教の現代的位相の一つとして積極的に評価し、それが宗教概念そのものの再定義に通じることを示唆する。
 また本書における門田氏の独自な方法として注目されるべきは、民俗学的なアプローチの手法によりながら、巡礼ツアーの参加者だけではなく、ツーリズム産業や巡礼ツアー専門の旅行業者などに対する参与観察を行うことによって、マクロレベルからミクロレベルまで巡礼ツーリズムの実相を克明に描き出そうとしていることである。すなわち、佐渡の旅行会社が企画した四国八十八ヶ所巡礼ツアーの事例などを通して、巡礼ツアーがどのような過程を経て形成されていったのかを明らかにするとともに、ツアー参加者の語りがどのような社会的文脈のなかでどのように構成されるのかを、語り・ナラティブの詳細な分析によって再現して見せている。
 しかし、本書にも多少の問題がないとは言えない。門田氏が民族誌を目指すという割には、調査対象としたフィールド、すなわち四国八十八ヶ所巡礼に引き付けられる佐渡の人々の宗教的背景や生活の実情、あるいは四国八十八ヶ所霊場そのものや沖縄の御嶽などといった聖地の現実や実態については必ずしも十分に論じられていない。自身がフィールドワークで得たデータを整理・分析するための社会学や人類学の理論的枠組みの検討に紙数が費やされ、肝心のナラティブそのものの分析や地域社会に関する先行研究の検討は十分であるとは言い難いし、民族誌的なデータの検討が消費や市場に関する議論に置換されてしまっているという点でもやや物足りなさが残る。
 とは言え、本書は現代日本において、宗教について学問的に語るとはどのようなことであるのかという本質的な問いに迫っており、今後こうした議論を進める上での一つのモデルケースとなり得る思考の道筋を示しているとも言えよう。以上のような理由により、本委員会は、本書を2014年度日本宗教学会賞にふさわしい業績であると判断する。

 

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