2010年度選考委員会報告

2010年度学会賞選考委員会報告
審査対象
岩谷彩子氏(広島大学准教授)著『夢とミメーシスの人類学――インドを生き抜く商業移動民ヴァギリ』(明石書店、2009年2月刊)

概要
本書の主題は、南インド、タミル・ナードゥ州を中心に活動するアウトカーストの商業移動民ヴァギリが、他者との関係の中で自らの生活環境を再定義していく過程を綿密なフィールド調査資料に基づき、「ミメーシス(模倣)」と「夢」をキーワードにして分析した試みである。ミメーシスは、アリストテレスにより芸術原理として概念化された言葉であるが、それは単なる模倣ではなく、ありそうな仕方で行為を再現することで、模倣対象が持つ力を引き出していく創造的な行為とされる。
本書は、序論「模倣からミメーシスへ」、第1部「ミメーシスという生存戦術」(第1章「複数の名前の狭間で」、第2章「複数の生業と生活戦術」)、第2部「夢見による社会構築」(第3章「他者が神となる空間」、第4章「夢の想起と社会構築」)、第3部「夢見による社会変容」(第5章「地域の神々との節合」、第6章「キリスト教宣教と改宗」)、結論の構成からなり、巻末には、付録、参考・引用文献、関連用語、索引が付されている。
本書に対する選考委員全員の評価は次の二点に集約することができる。
第一に、インド社会の民族誌的記述にはさまざまな困難が伴う中で、著者は二年間にわたる現地調査で相互理解と信頼(ラポール)を確立し、彼らの家に同居し、ともにインド各地を巡り歩き、彼らの知られざる宗教実践を明らかにしたという、宗教研究におけるフィールドワークの可能性を提示した点、第二に、ミメーシスをヴァギリが本能的に身につけた生存技術として捉え、夢を語ることが現実の社会を構築し変容させていく手段であると位置づけたことにより、複雑なヴァギリ社会を統一的に把握できるとした、フィールド調査と理論分析との関連づけの巧みさという点である。
評価すべき点
本書は、学位論文をベースにしているが、学説の整理、先行研究を踏まえたミメーシス概念の援用の妥当性、調査法及び調査者との関係などについて十分に説明されている。事例の提示、分析と結論付けと論証の過程も適切であり、再検証の場を保証する構成をとっている。また、巻末に付録として八項目にまとめられている、人称名称・親族名称、儀礼次第などの貴重な調査結果や、参考・引用文献、用語解説、索引も行き届いており、ヴァギリ社会の多様な側面を綿密にわかりやすく提示した本格的著作に恥じない丁寧な本づくりとなっている。加えて、各章の註は周到で委細を尽くしており、学術的価値をさらに高めており、調査と理論を繋ぐ、各章末の「まとめ」も効果的である。初学者にも理解できる以上のような体裁に加え、「居候」と自らを称する参与観察、インタヴュー調査、質問票を用いた口頭でのアンケート調査は、他人任せでなされたものではなく、著者の実感が伝わる生きた記録ともなっている。
本書の各章で展開される内容の委細は省略せざるを得ないが、著者はミメーシスとして、夢に注目し、ヴァギリ社会は他者が抱くヴァギリ像を受容し生活基盤を確保する一方、対峙する他者像を夢の中でミメーシスし、ヴァギリのリネージ神を中心とする集団秩序に統合していくシステムを発達させてきたとの全体的結論を提示する。その骨子となる分析と理論構築は、堅実なフィールド調査に裏打ちされており、きわめて説得的である。多様な事例とそれに基づく解釈が緻密に積み上げられ、整理された多くの図表がその理解を助けている。
また、本書は、宗教研究において閑却視されてきた夢という旧くて新しいテーマを主題化し論じるなど、さまざまな宗教学的問題を再提起する書ともなっている。ホスト社会の宗教であるヒンドゥー教との関係やキリスト教の宣教によるヴァギリ社会の変容など、ミクロな次元における宗教変化・改宗問題を事例として扱っており、今後のさらなる発展性を内蔵している。
問題点と今後の課題
本書は、実証的調査から、きわめて高度で優れたデータを提示したといえるが、ミメーシスの概念規定・操作・用語法のさらなる工夫と練磨によって、ヴァギリの生活や行動様式を的確に表現する概念としてより論点を明確にすることが期待される。加えて、ベルクソン、ニーチェやリクールなど関係する思想家への言及・参照にはより慎重な配慮が欲しかった。また、ミメーシスと模倣の十分な差異化、自覚的で意図的な行為であるミメーシスに対して、夢の語りにおいてもこのモデルが適用できるかどうか、いっそうの吟味が望まれた。さらに、ヴァギリ自身の言葉からミメーシスを論じることやその背景となる世界観などがつけ加えられれば、より説得力が生じたように思われる。
 今後の補完による本研究テーマのさらなる展開には大きな期待が寄せられる。キリスト教史からは、ヴァギリのキリスト教改宗者が教会で行う信仰告白・証しの内容と会衆との共有の関係性、改宗者のライフ・ヒストリーを通しての問題点の析出、長い伝統を有する南インドのキリスト教の布教史のなかで1960年代以降のペンテコステ派の活動に対応したヴァギリの改宗のもつ意味の通文化的な研究、これらのテーマの展開は本書の有する宗教学的意義をさらに豊かなものにするだろう。
結論
本書が提示した、ミメーシス(生き抜く技法)と夢(社会・主体の構成)との相互性・相関性の問題は、南インドのヴァギリの事例に限定されたものではなく、より広範に適用できるようにも考えられ、この主題が宗教研究に対して有する可能性・妥当性・普遍性について今後多くの検討がなされる契機を提供した意義は大きい。ヴァギリの宗教実践を主題とし、夢をはじめ宗教学の取り上げるべき多くの課題に挑んだ本書は、その内容においてきわめて斬新で意欲的な宗教研究であり、よって、本委員会は、本書を2010年度日本宗教学会賞にふさわしい業績であると判断する。


 

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