2008年度選考委員会報告

2008年度学会賞選考委員会報告
審査対象  杉木恒彦氏(早稲田大学高等研究所助教)著『サンヴァラ系密教の諸相――行者・聖地・身体・時間・死生』(東信堂、2007年6月刊)

本著は、これまで資料的にも方法的にも全貌をつかみにくかった「サンヴァラ系密教」の内実を描き出し、その史的意義と特質を考察した労作である。
資料的には、内容および相互関係の詳細が不明であった、インド後期密教の十一典籍を主要な研究対象とし、公刊済みのサンスクリット語テキスト、未公刊の写本であるサンスクリット語資料、およびその両者にたいするチベット語訳の緻密な読解にもとづいて、記述の相互貸借関係、概念成熟度の比較、思想体系化の方向の、それぞれを分析、整理している。
また方法的には、本書の副題にあるように、「行者」、「聖地」、「身体」、「時間」、「死生」という、分析のための五つの概念をテキストから析出している。これらはそれぞれ、宗教の実践主体、礼拝対象、巡礼、冥想、世界観という、宗教の基本的組成に対応しており、これにそって本論を組み立てることによって、編纂の時代や関心がたがいに異なる個別テキストの群れを「サンヴァラ系密教」という一宗教の歴史として俯瞰可能なものにした。
本論全七章では、これらの五概念を各資料に照らして検討しながら、文献相互の歴史的展開を明らかにしている。実態がおよそ不明であった密教「行者」については、聖人伝の分析から、僧団および世俗社会との関係にかかわる理念型を得て、密教世界と世俗世界との交渉の具体相を明らかにした。また、サンヴァラ系密教の中心的テーマとして、「身体」を媒介にした「聖地」と「時間」との、それぞれの内外への二重化が指摘される。すなわち、時代とともに「聖地」は外部の巡礼地から身体内部の冥想の基点へと内化され、これによって外なる宇宙的時間と内なる身体的時間との二重化がみられる。こうした「時間」のありようは密教行者が死を迎えるさいの技法にも反映し、その「死生」観の前提には、コスモロジーとフィジオロジーの融合がみとめられるとする。
歴史の詳細が不詳な八世紀から一四世紀のインド中世を背景としながら、未刊行の写本資料ととりくみ、なにより雑然とした用語集のごとき文献群からこれだけの内容を体系的に抽出しえたのは、かつてない偉業といえよう。一次資料の解読にもとづく宗教史の作業はまことに労多きものである。ともすれば、既存の資料をもとに解釈の新奇さや巧みさを競いがちな斯学の状況にあって、著者が若くして資料の整備から解釈までの全体を一つの研究成果として示しえた功績は大きい。津田眞一氏が三○年以上も前に先駆的に着手した研究を継承発展させたにとどまらず、あらたな研究分野の自立をめざした意欲的な試みとして評価できる。
とはいえ、本書には、部分的に改善すべき点もある。なにより序論と結論である。とくに序論において、過去の研究史の整理と評価、主たる資料の研究史的現状の説明、これを前提とした本書の企図の意義と研究方法について等々、本論に先んじてなされるべき手続きが省かれているのは、一作品としての完成度を低くしている。事実の叙述と分析概念を導入しての解釈の区別がときに曖昧となる点にはいっそうの慎重さが要求され、本論の骨格を構成する五つの概念についても宗教学的にさらに深く踏み込んだ考察が期待される。
だがこうした諸点をさしひいても、広範な一次資料を解読し、インド後期密教の一大伝統を提示しえた功績の意義がそこなわれることはない。その研究史上に記した道標の意義を高く評価して、本委員会は本書を、2008年度日本宗教学会賞を受賞するにふさわしい業績であると判断する。


 

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