2006年度選考委員会報告

2006年度学会賞選考委員会報告
審査対象 矢野秀武氏(駒澤大学専任講師)著『現代タイにおける仏教運動――タンマガーイ式瞑想とタイ社会の変容』(東信堂、2006年3月刊)

本書は、上座仏教の伝統が強い現代タイにおいて、1970年代以後、活発な活動を展開してきたタンマガーイ寺とその先駆けとなったパークナーム寺を中心とする新仏教運動について、長年にわたるフィールドワークの成果を踏まえながら、宗教社会学の視点から探究したものである。著者は現代タイの上座仏教内の僧侶によって創出されたタンマガーイ式瞑想やタンマガーイ寺の儀礼および信仰を、近代国家による統一サンガ形成の行政に対抗する「近代宗教運動」の一つとしてとらえ、その仏教運動を宗教史と宗教行政の関係、および消費社会と宗教的実践の関係という二つの視点から記述・分析している。この研究によって、現代タイ社会における急激な近代化の波の中で、その新仏教運動が伝統的な上座仏教から強い批判を受けながらも、救済を求める大衆の宗教意識を取り込んでいく過程を明らかにしている。
本書全体は、序章と第1部、第2部、第3部の三部構成になっている。まず、序章では、タイの宗教および上座仏教に関する先行研究を丁寧に踏まえて、本書の意図、対象および分析方法を提示している。そのうえで第1部では、20世紀初頭から現代までのパークナーム寺の状況とタンマガーイ式瞑想の形成過程を論じている。その議論をとおして、タンマガーイ式瞑想の実践内容とその思想が、主流派の正統的な解釈とタンマガーイ式の独自な解釈が接合された二重構造を成していることを指摘している。第2部では、タンマガーイ寺が活動を展開する過程で、一般信徒のあいだで二つの信仰の型が、すなわち、瞑想・修養系の信仰と寄進系の信仰が組み合わさっていることを明らかにしている。さらに第3部では、第1部と第2部における議論を踏まえながら、タンマガーイ式瞑想の形成と展開を分析・整理し、タンマガーイ寺の伝統が宗教的自己(個人)の観念を展開していく状況を分析している。タンマガーイ式瞑想は涅槃志向の特殊な守護力信仰に基づいているが、著者はその守護力信仰が独自の宗教的自己の観念を生み出したと分析している。また瞑想・修養系の信仰において、信徒の主観レベルでは、宗教的実践が消費社会への抵抗として認識されているが、それがマクロレベルでは、実質的に消費社会に絡め取られていることを検証している。
このように本書は、現代タイ社会における新仏教運動を宗教社会学的に分析した労作である。従来のアジア・アフリカ研究では、固有な伝統文化に焦点が当てられがちであったが、本書は同時代としてのタイの社会的変容と宗教運動に正面から取り組んでいる。また著者は研究方法として、アンケートやインタビューなどの宗教社会学的な方法、タイ仏教史や自伝分析などの宗教史的な方法、さらにタイ語仏教経典に関する文献学的方法を有機的に連関させている。こうした意味において、本書は地域研究や隣接分野との学際的な研究を刺戟し、宗教研究に新たな潮流を惹き起こす可能性を含んでいる。
ただし、本書はいまだ検討すべき研究課題を抱えている。まず、本書における議論の厚みに比べて、導き出された結論がやや平板なものになっている点に不満が残る。著者は瞑想・修養系の信仰を消費社会論的な視座からとらえようとするあまり、その思想や信仰の深みを規律性と快適性という行為の表現様式へと平板化し、そのために、その思想や信仰の分析が皮相的なものとなっているきらいがある。また、伝統的な上座仏教の思想や信仰に関する記述が不十分であるために、タンマガーイ寺の思想や信仰との差異が必ずしも明確になってはいない。さらに、タンマガーイ寺は仏教の社会還元運動を行う世界の仏教徒とも交流を深めているが、そうしたタンマガーイ寺と海外の仏教教団との関わりについても考察を加えれば、タンマガーイ寺の運動目標がもっと明白になるであろう。
以上、述べたように、本書は今後、明らかにすべき研究課題を抱えてはいるが、新しい研究ジャンルを開拓し、宗教学の新たな可能性を示す、質量ともに高いレベルの宗教研究である。こうした点を評価し、2006年度の日本宗教学会賞にふさわしい研究業績として推薦する。


 

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