2022年度学会賞選考委員会報告

審査対象 飯島孝良氏(花園大学専任講師)著『語られ続ける一休像――戦後思想史からみる禅文化の諸相』(ぺりかん社 2021年7月刊)

本書は、中世後期の禅僧・一休宗純(一三九四~一四八一)が、いかに時代を経つつ語られ続けてきたか、そしていかなる一休〈像〉が形成されてきたのかを考察し、その〈像〉に託された戦後思想史における意味を明らかにしようとした意欲作である。

著者が指摘するように、「戦後の一休論を辿るという作業が、日本思想史における西田哲学・大拙禅学の受容史をも解明する試みとなった」(終章・357頁)ことが、本書の試みとして評価できる。一休〈像〉を語ることを通じて、西田幾多郎、鈴木大拙の哲学や思想の戦後思想史における受容の諸相と禅文化の多様性が明らかにされたことは、本書の研究のひろがりを示唆している。

例えば、著者は、『一休和尚年譜』に描かれた生真面目な一休、『狂雲集』『自戒集』を書いた破戒的な一休はどれも彼の姿を映すものではあるが、その死後に語られ続けた一休〈像〉は、時代との連関の中で、その生き方が思想として必要とされたのだという。他にも「狂雲子一休がその全体像の名において世に出るためには、敗戦を待たねばならなかった」(序論・87頁)と論じた市川白弦は、近代日本批判精神の模範として一休を見なしたと指摘している。著者は、「高僧にして破戒僧」という矛盾を抱えた一休であったからこそ、既成権力を強烈に批判し、あらゆる拘束から解き放たれることを目指す再生の象徴の〈像〉として、戦後日本の思想界に必要とされたことを、説得力をもって明らかにしている。

本書の評価すべき点を挙げる。第一に、着眼点のよさが挙げられる。一休がさまざまに表象されてきたことは周知の事実であるが、そのことを戦後の四人の禅文化に縁ある知識人たち(前田利鎌、芳賀幸四郎、市川白弦、柳田聖山)の所説(一休〈像〉の描き方)を辿ることで解明する点に説得力がある。著者の試みた手法は、日本宗教思想史の分野だけでなく、ほかの宗教思想を扱う際にも、大いに参考になると考える。第二に、資料を博捜していることが挙げられる。外国語文献を用いる場合に比べて、日本語文献にほぼ基づいている本書の場合、「博捜」はより容易であろうが、それにしても、幅広いジャンルの一次資料・二次資料を広く読み込み、立論する力量は評価に値する。第三に、安定した筆力を挙げたい。文章は、論理的に一貫しているだけでなく、魅力的かつ洗練された文体を有しており、読者を引き込まずにはおかない。

本書の課題とすべき点を挙げる。第一に、本書の約三分の一を占める序論の位置づけについてである。本書で最も興味深い章は、本論よりもむしろ序論の部分であり、著者の博識がいかんなく発揮されている点は認めるが、それだけにやや浅薄の感を免れない。細かい点になるが「(2)方法としての〈像〉形成史研究―聖書学と仏教研究において」(21~26頁)の解釈学的な方法論に関して、無理に聖書学を引き合いに出す必要はなく、むしろ本書の方法論の説明をきちんとすべきであろう。また、序論はその分量と内容的にも、「序論」と位置づけるべきか多少疑問が残る。本書において、この部分は「序論」というよりも、本書の重要な内容の記述と考えられるからである。序論と本論との関連がより明確にされておくべきであろう。第二に、一休〈像〉そのものの記述の分量についてである。副題にもある通り、本書は「戦後思想史からみる禅文化の諸相」とかなり広い範囲のテーマを取り扱おうとするものであり、その大胆な試みは評価するが、同時に一休〈像〉そのものの記述がやや背景に退いている感は否めない。第三に、終章に引用した「誰も仏教信者ではなくなった」(358頁)という加藤周一の江戸時代の仏教理解についてである。加藤のこの理解を、著者は「おおむね妥当」としているが、果たしてどうか。加藤の見立ては近世仏教堕落論に拠ったものと見なせるが、そうした近世仏教像もまた、近代史学によって創出された〈像〉だからである。戦後知識人が一休〈像〉を考察する際に前提とした歴史像そのものの妥当性も検討されるべきであろう。

むろん、これらの課題の指摘は、著者による将来の研究に対する期待の裏返しでもある。本書によって、一休〈像〉を手がかりとして禅仏教研究の戦後思想史が解明されたことで、日本における禅の伝統の解明とその思想史の解明が、いよいよ本格的に始まることが期待される。

本選考委員会はこの著作を、構想・内容・記述すべての面で高く評価した。よって本書を2022年度日本宗教学会賞にふさわしい業績であると判断するものである。