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2020/10/19 シンポジウムの質問への返答を掲載しました。

シンポジウムの質問への返答

シンポジウム視聴者からメールでいただいた質問・感想と登壇者からの返答を、下記に掲載いたします。

◆質問

講演1・坂井田夕起子「戦後日本と東アジア仏教世界の交流―第2回世界仏教徒会議からみた戦前との連続、断絶について―」

Q.遺骨・仏舎利・国際会議以外に、各国間の仏教と政治が密接にかかわる事柄はありますでしょうか
A.中国や台湾が行った事例ですと、仏教友好使節団の派遣などもあるかと思います。

Q.今回のお話では、50年代の東アジア仏教交流をリードした仏教エリートたちの活動が中心でしたが、その交流活動の成果がそれぞれの国・地域の仏教徒に持続的な影響を与えるという側面はあったのでしょうか。もしご存じのことがあれば教えていただきたいです。
A.冷戦の時代は、中国も台湾も政府によって仏教活動そのものがかなり制限されていました。ですので、個人への影響はともかく、広く持続的な影響を与えるというのはかなり難しかったと思います。

Q.中山理々は日本の仏教(者)とアジアの仏教(者)との交流に尽力したということですが、キリスト教や新宗教など他宗教との交流については何か考えがあったのでしょうか? たとえば日本の新宗教「大本」は、「諸教同根」「万教同根」など教祖出口王仁三郎が提唱したとされる理念に基づいて、アジアや欧米の他宗教との提携を目指した運動を展開しております。こうした地域のみならず宗教の枠を越えようとするような発想は中山にはあったのでしょうか?
A.中山の場合、日本山妙法寺との関係はかなり良好だったことがわかっていますが、それ以外については現時点ではまだ把握しておりません。今後の課題です。

Q.中山理々の経歴に興味が湧きました。戦前の1941年に彼が主張した仏教国有化という議論とは何であり、彼個人の意見なのか、戦時下において、どのように受け取られたのでしょうか。無視されたのでしょうか?
A.現時点でわかっている範囲では、戦時体制の中で、もっと鎮護国家の役割を果たすべき(各寺院の天皇崇拝をもっと徹底し、寺院は境内や僧侶人員を自治体に無償提供して銃後支援すべき)といったことを主張しています。印象としては、戦時中に神社が期待された役割を、本来の仏教が果たすべきという主張に聞こえます。
日蓮宗大本山法華経寺貫主宇都宮日綱や大本山浅草寺貫主大森亮順、長井真琴らが賛同者で仏教界では概ね好意的に受け止められていたようで、政界や軍、華族方面にも支援者がいました。

Q.1941年の東亜仏教圏お盆祭りは、当時の政府の主張にあっているが、彼独自の主張か、彼はどのように政治家とつながっていったのですか? この当時から国際性のある主張があることは注目できて、もっと評価してもよい史実なのではないでしょうか。当時の日本の仏教界?のこれに対す賛成・反対はありましたか? 全仏連はまだなかったが、日本の仏教界をまとめるもの(仏教連合会はあったらしい?)として、意義があるかも知れない?
A.東亜仏教圏お盆まつりについては、以下の来賓がわかっています。駐日中国大使褚民誼、柳原義光伯爵、文部大臣安藤正純、陸軍大将松井石根、東京市長大久保留次郎、白根男爵夫人、帝国大学教授永井真琴。彼らとの関係については、今後の課題です。

Q.彼が独自の仏教宣教運動を始めた理由として、当時の仏教教団の形骸化があると思われるが、戦前において彼以外に、改革を志向した仏教徒はいたのでしょうか、彼だけですか?
A.戦前に既存の教団の体制を批判した僧侶や仏教徒は大勢いました。そして、それぞれの「改革」を主張されていました。中西直樹『新仏教とは何であったか』などは手に取りやすい概説書ではないかと思います。

Q.中山理々に関して、調査できた資料に本人の手帳や日記など一次資料はありますか? オーラルな資料なども。
A.現時点ではありません。追悼集を編集したときにお寺の資料は処分したと聞きました。ですが、中山理々はご自身で雑誌を編集したり、知人の雑誌に寄稿されていた期間が長いので、それらを集めています。あと、知人の日記に出てくる中山理々の姿も興味深いです。

Q.1952年10月に北京で開催されたアジア太平洋地域平和会議は、日本で開催された第2回世界仏教徒会議に対抗して開催されたように思われるが、それで正しいですか? 参加国はどこでしょうか?
A.アジア太平洋地域平和会議は、もともとインド開催の予定でした。インド側の都合がつかず、半年前、急遽、北京に会場変更になりました。
中国、日本、オーストラリア、ビルマ、朝鮮、アメリカ、イギリス、チリ、ベトナム、イラン、トルコ、インドネシア、カナダ、インド、パキスタンなど37国の代表が参加したそうです。

Q.1942年に南京で玄奘の遺骨が発掘され、1944年に玄奘塔が建設され、その一部の遺骨が埼玉県にもってこられたそうですが、それはどれほどの分量だったのでしょうか。
ネットで調べると頭骨の一部(http://www.jionji.com/)だということですが、それで正しいですか? また中国にも一部残されたとされていますが、今でもあるのでしょうか?
A.軍医によれば頭の部分で、日本に来たのは少量だったようです。そして、中国の南京と成都にも残っていますし、戦後は中国からインドへも分骨されました。詳細については拙著『誰も知らない『西遊記』―玄奘三蔵の遺骨をめぐる東アジア戦後史』をご覧いただけると写真も掲載しています。

Q.日本国内の高尾山の仏舎利はもともとタイの王様から寄贈されたものですが、日本国内にある仏舎利に関する一貫した研究はありますか?
A.概略を知るには、光地英学著『日本の仏舎利塔』(1986年)が便利です。ただ、全ての現地を著者が調査しているわけではなく、パンフレットの間違いがそのまま掲載されているものもあります。

講演2・小島敬裕「戦中・戦後における日本人とミャンマー人仏教徒の交流」

Q.ミャンマー上座部仏教の僧侶や一般人は、日本の仏教や大乗仏教についてどの程度のことを知っているのでしょうか。
A.現在のミャンマーで、日本仏教について広く知られているとは言えません。あえて言うなら、禅や鎌倉大仏の存在が一般に知られている程度です。ミャンマーで上座部仏教に関する調査を行うと、私はしばしば日本仏教に関する逆質問にあいますが、特に妻帯が認められていることについては驚かれます。もちろん、来日経験や、日本仏教に関する書籍や報道などに接した経験によって個人差はありますが、日本に対する関心は強い一方で、日本の大乗仏教についてはあまり知られていないのが現状です。

Q.出家主義の強い精神性は経済発展には不向きなように感じられたが、これは宗教性だけでなく民族性とも関係しているように思われるが、どうでしょう?
A.たとえば現在のミャンマーで、経済発展が急激には進んでいないことは事実ですが、これは独立後、長く続いた政治的混乱による影響が大きく、宗教や「民族性」ですべてを説明するのは難しいように思います。上座部仏教徒社会においても、ミャンマーの隣国タイでは、東南アジア諸国の中で比較的高いレベルの経済発展を実現しています。また「出家主義」とは言っても、あらゆる仏教徒が経済的な発展を断念し、涅槃を目指して修行に勤しんでいる訳ではありません。

Q.Vipassana瞑想は、アメリカのごく一部のビジネスマンにも取り入れられ、「スピリチュアリティと経営」の事例としてもNYTの記事などに書かれています。
https://archive.fortune.com/magazines/fortune/fortune_archive/2001/07/09/306536/index.htm
そこで質問ですが、ウィパサナー瞑想を実践されたと伺いましたが、現地ではどれほど受容されているのでしょうか? ミャンマー人やタイ人の経営者たちも利用しているのですか?
A.上座部仏教徒社会において、ウィパッサナー瞑想は広く実践されています。欧米では経営者やビジネスマンらによって、自己認識力や創造性、人間関係力などを高める手法の一つととらえられているようですが、たとえばミャンマーでは、経営者のみならず幅広い社会階層の人々によって実践されており、各地の瞑想センターでは実習コースもしばしば開催されています。一定期間、瞑想センターに籠って瞑想に専念される方もいらっしゃれば、通いで瞑想される方、さらには自宅で瞑想される方もいらっしゃいます。

Q.S. N. Goenka(~2013)がその世界的指導者とされるが、彼の方法論がミャンマーやタイでも広く利用されていたのでしょうか?
A.ミャンマーではGoenka氏の瞑想法は比較的メジャーですが、それ以外にも様々な方法が実践されています。たとえばマハースィー・サヤドーの瞑想法は世界的に広く知られていますし、近年ではパーアウッ(パオ)サヤドーの瞑想法も国内外で受け入れられつつあります。これ以外にも、ミャンマー国内には様々な方法に基づく瞑想センターが開設されており、修行者たちはその中から、自分に合った瞑想法を実践しています。

講演3・ランジャナ・ムコパディヤーヤ「戦前・戦後におけるインドと日本仏教―日本山妙法寺・藤井日達のアジア伝道から世界平和運動への展開―」

Q.インドでアンベードカルの新仏教の後継者を任じる佐々井秀嶺の伝記等を読むと、藤井日達の日本山妙法寺とかなりつながりがあったようですが、藤井は、佐々井の活動についてはどのように評価しているのでしょうか? お聞きしたいです。
A.藤井日達のインド日記、書簡、書籍などを読むかぎり、藤井が佐々井秀嶺又やアンベードカルの新仏教徒運動について触れている箇所は見当たりません。おそらく、戦後にインドに渡った藤井の弟子たちが、佐々井秀嶺と交流を持ったのだと思います。

Q.藤井がセイロンでもらった仏舎利が軍人への布教で利用されことは驚いたが、軍人たちは、その仏舎利をどこかに安置したのでしょうか?
A.セイロンで入手した仏舎利を藤井が軍人たちに渡していたことは、日本山の資料から明らかですが、仏舎利を受け取った軍人たちが、日本や戦時中の満州でそれをどこに安置したのかについては、情報がありません。また、藤井は軍人たちに仏舎利を安置するための仏舎利塔建立を求めていましたが、建立はされておりません。藤井は仏舎利を仏舎利塔のような形の容器に入れて、軍人たちに手渡ししていたので、そのままどこかに置かれていたのではないかと思われます。

Q.実際に藤井が所有していたブッダの骨で、日本山はどれほどの仏舎利塔を建立したのでしょうか?
A.インドのニューデリーで日本山が仏舎利塔を建設していた時、私も同じような質問を、建築事業を担当していた日本山僧侶に尋ねたことがあります。その返事は、日本山によって建立された仏舎利塔・平和塔には、ほんの少しであっても仏舎利が安置されている、ということでした。

Q.仏舎利が安易に藤井によって利用されたように思われたが、南アジアの近現代の仏舎利の広がりについての独自の一貫した研究はありますか?
A.日本仏教とアジアとの交流とりわけ各宗派の僧侶らによるアジアでの伝道活動に関する研究、および第二次世界大戦中に日本軍と同行した従軍僧に関する研究においては、南アジアの仏舎利が注目されることがあります。ただ、1つにまとまった研究は、まだなされていないと思います。

Q.藤井日達は、戦時中に日本軍のアジア侵略に加担していたことを、戦後になって丸山輝雄により批判されている。しかし、彼は、日本の仏教を広めることをそもそもの目的として、南京に最初に入城したと抗弁している。彼の中では、戦前と戦後も何も精神的な目的は変わっていなかったのではないかと思われる。これについて先生の考えを教えてください?
A.戦前の藤井とその弟子たちは、日本国の帝国主義と軍国主義へ時流に沿った形で積極的な協力姿勢を示していましたが、彼らを突き動かしたのは、究極的には宗教的動機であったと言えるかと思います。つまり、藤井のアジア主義には2つのアジア観が混じり込んでいたと考えられます。1つは西洋国のアジア植民地支配への抵抗として当時のアジア主義者が夢想した日本国を中心とするアジア共同体の想像と、もう1つは「西天開教」のような日蓮思想が与えた世界観です。
藤井・日本山の戦前におけるアジア伝統と戦後の平和運動の原動力となるものは、日蓮の「西天開教」の予言の実践です。つまり、戦前における軍国主義やアジア主義と、戦後の平和主義に一貫しているのは、日蓮主義的な愛国主義であると思います。

Q.そもそも日本のアジア侵略という、戦後GHQが刻印した日本人にとっては自虐的な史観がある。しかし、アジアの植民地を開放して、大東亜共栄圏を作ろうという考え方が当時なされていた。ムコパディヤーヤ先生は、日本のアジア侵略、またはアジア解放の2つの見方について、どのように研究者として考えておられますか?
A.アジアを西洋の植民地支配から開放して、日本中心の大東亜共栄圏を形成しようというようなことは、主に日本のアジア主義者によって提唱されていました。また中国やインドのアジア主義たちも、アジアの国々の文明的歴史的繋がりを主張し、アジア諸国の共同体を作ろうというような考え方をもっていました。
しかし、明治維新後に急速に近代化した日本を「アジアの光」として見上げていたガンジー、ネールなどのインド独立運動のリーダらは、満州事変や日中戦争の後、日本に対する見解を一変し、日本によるアジアでの侵略戦争によって、アジア諸国の連帯が崩されたと、日本を厳しく批判するようになりました。一方、もう一人のインド独立運動のリーダであったボースは、ガンジーのように非暴力主義的な抵抗運動ではなく、日本軍の力を借りて軍事力によってインドをイギリスの植民地支配から解放しようとしました、しかしこれは成功しませんでした。いずれもアジアの歴史上の主な出来事であり、それらの正邪曲直をただすよりも歴史的事実として認めておくべきであると思います。

Q.近代日本のアジア主義者の多くが日本の領土拡張を「アジアの解放」と同一視しており、その中には「世界皇化」を主張して日本の天皇を世界の支配者となるべき存在と位置付けるような思想家も存在していました。今回の先生のご発表では、藤井日達のアジア主義的側面が指摘されていますが、日本の「天皇」あるいは「天皇制」については言及がありません。仏教者に限らず、近現代日本の宗教者にとって天皇(制)をどう理解し位置付けるかは、自身の宗教理念や活動を正当化するうえで非常に重要な要素で避けることができない問題と思われますが、藤井日達は日本の「天皇」あるいは「天皇制」についてどのように考えていたのでしょうか?
A.日蓮の伝道活動の特色であった「国主諌暁」、つまり為政者への宗教的な諫言というものが、藤井の行動と思想に大きな影響を与えていました。災害や内乱に苦しむ民衆の救済として、また対外戦争を未然に防ぐ方途として、政治権力者を正しい仏法(つまり、法華経)へ導くことが必要であると、日蓮は『立正安国論』で説いています。そのために、法華経・日蓮の教えへの猛烈な信仰とともに、天皇及び皇室への忠誠と愛着も、藤井の信仰活動の特徴として見られます。実際、藤井は伝道活動を開始する前に、身延山だけでなく、宮城をも参拝しております。これは災害や戦争などの「国難」を回避するために、日本国家の国主である天皇・皇室を祈念することが、日蓮の説いた「国主諌暁」の実践であると、藤井が確信していたからです。藤井は、戦前・戦時中の日本軍や日本政府のやり方を批判しておりますし、また戦後にも藤井の弟子達が政府の様々な方針を批判しています(成田新空港建設への反対闘争や憲法改正への反対など)。一方、藤井は、天皇への尊敬と絶対的信頼を、戦前も戦後も持ち続けておりました。王政復古、明治維新そして当時の日蓮主義運動という時代的思潮を背景としていた藤井の信念とその実践的行動には、法華経への信仰と天皇への信頼の両面があったと思います。

コメント・石井公成

Q.中国で仏舎利より、禅僧のミイラが珍重されているとのことですが、中国の禅宗寺院にどれほど広がっていますか? そもそも中国には、仏舎利塔はあまりないのでしょうか? あるいは玄奘のお骨のように、著名な仏教者の骨への崇拝はあまりないということでしょうか。
A.【禅僧のミイラ】 中国でも仏舍利は信仰されていました。有名な例としては、隋の文帝がアショカ王にならって、中国各地やベトナムに舎利塔を建てさせていますし、則天武后の頃にはインドから渡ってきた仏舍利を法門寺に納め、その仏舍利を宮中に迎えて祀る盛大な法要が営まれました。ただ、唐代以後は、舎利塔は重要な聖地とはなりませんでした。一方、中国禅宗の確立者とされる六祖恵能は死後ミイラにされ、現在も広東省の南華寺に祀られて「真身」として信仰を集めています。その弟子の石頭希遷も没後はミイラにされ、近代になって日本に持ち込まれています。他にも、禅僧でミイラにされて信仰を集めた例は少なくありません。中国仏教の四大聖地であって地蔵菩薩の住所とされる九華山でも、地蔵菩薩と同一視される新羅の金地蔵が没後にミイラにされ、現在も信仰を集めています。

Q.戦前から戦後への価値観の転換ついて、どのような形ならば、日本主義の弊害を乗り越えた思想的転換と言えるのでしょうか。変わらなければ批判され、変わったら節操ないと批判されるという、双方からの批判を越え出るような対応として、どのようなケースがありうるかという質問です。
A.【戦前から戦後への価値観の転換】 変わるのは当然ですが、問題はどれだけ反省し、同じパターンを繰り返さないかです。一例としては、国家主義に反対しつつも戦時中にやや流され、戦後反省して活動した市川白弦や小倉豊文があげられます。『近代の仏教思想と日本主義』の「総論 日本主義と仏教」をお読みいただきたいのですが、変わらない場合も、批判されるとは限りません。京都学派の高山岩男は、戦後も基本的な立場を変えていませんが、これはそれなりの水準に達していたのが一因であり、無節操ではなかったと評価しています。戦時中の日本のあり方を冷静に眺めていたという点では、中江丑吉(https://researchmap.jp/read0182148/published_papers/19980331)や林達夫が一例でしょう。

◆感想

●戦後間もない中での東アジアの政治情勢の中で、仏教者たちが国際交流につとめた一断面がよくわかり、大変興味深いものであった。
●より実践的・求道的な視座をお持ちで、今回は人類学的な調査よりも文献的な研究発表であった。その中から、戦時中から日本人としてミャンマーで最初に比丘となった上田天瑞の体験談・彼とミャンマー人との意識の違い・すれ違いについて大変分かりやすく解説されており、日本とミャンマーの知られざる精神交流史として大変面白かった。市原瑞麿らが遺骨主集団として活躍する中で、死者供養を日本人ほど重視しないミャンマー人の精神は日本人とはかなり異なることがよく分かった。
●時代が変わり、現在では、新たな動きが始まっているということで、今後のミャンマー・日本の若者との間での交流の行方を楽しみとしたい。
●藤井が100歳まで生きたことは驚異的で、大正期からインドにわたり、日蓮主義者の彼の生きざまは強烈であることがよくわかった。
●「遺骨・仏舎利」や「国際会議」といった仏教関連レガシーがつなぐ国際政治は、まさに21世紀に入って習近平の中国がユーラシアの地政学全体を念頭に置いた「シルクロード経済圏構想」(別名「一帯一路」)と呼ばれる文化外交方針を打ち出している現状においてますます重要性を増しているように思います。
今日、中国関連の仏教遺産は特に東南アジア・南アジア向けの文化外交の基幹として活用されており、共産党政府は対象国へのインフラ開発と抱き合わせる形で、玄奘や法顕、義浄といった自国の仏教レガシーを担う人物を新たに文化外交の立役者に仕立て上げ、「彼らが歩いた道(≒一帯一路のルート)を再興する」という特異なロジックの元で、実際のロジスティクス(物流網)としてのインフラ開発を円滑に進めようとしています。
ムコパディヤーヤ先生もよくご存知のことですが、こうした「他国との地続きのつながり」を文化・宗教的な紐帯を持ち出して強調するソフトパワー外交は、「自由で開かれたインド太平洋」構想を打ち出した安倍政権においても顕著でした。安倍前首相がインド議会で行った「2つの海」演説や、バラナシ訪問を回顧して述べた「輪廻に代表される日印の精神的結びつき」といった(ある種「エモい」)発言の数々は、ブッダやヴィベーカーナンダといった具体的な人物の名を介した宗教思想上の交流を外交レベルの共感に結びつけようとする典型例と言えるものです(首相交代でこの路線の継続が不透明になったことはある種残念ではあるのですが)。
こうした意味で、登壇者お三方のご発表は大変示唆深いものであり、いま私たちが見ている仏教を取り巻く文化外交の実態を、戦前戦後を通して日本の仏教者たちが残した足跡の延長線上にある物事として捉えるべきではないか、という新たな気づきを得ることができました。また、石井先生が提起された<近代仏教と日本主義>という視点は、今日の中国が展開する仏教を軸とした文化外交を<近代中国仏教と中華思想>といった枠組みから照らし出す上でも応用可能な重要な示唆に満ちていたと思います。

日本宗教学会 第79回学術大会実行委員会